この福音に生かされて


 Ⅰ 私たちは本来、怒りの子です。
 エペソ2章3節には次のように記されています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」このように、私たちは神の前に怒りを受ける、裁かれる存在でしかありませんでした。何と惨めな悲しい者でしょうか。しかし、神は、そのような私たちを憐れんで下さり、福音を届けて下さったのです。「ユーアンゲリオン」ということばは、この言葉を聞くだけで、嬉しくなって神を賛美し踊り出したくなるような意味があるようです。これはまさに福音です。すべて、神の側で計画し準備してくださったのです。そして、福音には大きな力があり、人々を救う力があります。残念ながら、多くの人々はこの福音に触れても心を開こうとしません。一見、華やかな、楽しそうな道を選択しようします。ですが、その道はいつまでも続くのでしょうか?
Ⅱ 福音に生かされるとは
 ところで、コリント教会には、様々な問題があったようです。最初に挙げられているのは教会員の不一致でした。Ⅰコリント1章12節には次のように記されています。「あなたがたはめいめいに『私はパウロにつく』『私はアポロにつく』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っているということです。」コリントの教会の場合は不一致が顕著だったでしょうが、軽微であればどこの教会にも見られるのではないですか?それほどに、人々が一致すること難しいのです。パウロはコリント教会の人々に語りました。Ⅰコリント1章17節「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」このようにパウロは、人々を十字架のことばに心を向けさせようとしました。それは福音の力であり、人々を真に生かすことばなのです。 主の祝福があるように。