義のために苦しむとは



 今年のレント(受難節)は、2/26~4/11迄です。私たちは受難週だけではなく、レントの期間も主イエス・キリストの苦しみを覚えて、過ごしたいものです。
 ところで、Ⅰペテロの手紙は、主の苦しみと同時に、信仰者の苦難についても記されております。それに関して、二つの事柄を取り上げます。
Ⅰ 義のために苦しむ
 世の中には、何とも言えない理不尽な事柄が起こって来ます。そのような時に私たちはどのように対処するでしょうか? 14節のみことばを記します。
「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」次の15節に記されているように、キリストを主と崇めつつ、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には弁明しなさい。このように勧められています。私たちは、どのような状況にあったとしても、主にある希望が与えられています。感謝なことです。求める人にはその希望を分かち与えましょう。それが証しです。証しを難しく考える必要はありません。私の内になされた主の業を語れば良いのですから。
Ⅱ キリストご自身も苦しまれた
18節「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」ここで記されている「死なれた」とは、苦しみの中であえぎ、葛藤してそれを耐え忍ばれたことを強調している意味だそうです。私たちと同じ肉体を持ち、十字架刑に架かられたことは言葉を失う程の苦しみだったことでしょう。それは、すべて、全人類の罪に対する、神の怒りと裁きを一身に受けるためでした。私たちを神のもとに導くため、いわば、橋となってくださったのです。一般的に橋は、車、自転車、バイク、人等に無造作に踏みつけられます。主の苦しみの故に私たちは癒され、慰められることをこのレントの時に深く味わっていきましょう。