心を注いで祈る母の姿



 今年の母の日は5月10日 (日)でした。母の日の由来はご存知のように、天国に帰った母を追悼する集会から始まりました。その女性は「アンナ・ジャービス」という人でした。彼女は教会学校の教師であった母の言葉を思い出したのです。そして、1914年にアメリカではこの年から国民の祝日となりました。
ところで、聖書の中には様々な母親が記されています。その中でも、祈る母の代表として、Ⅰサムエル記に登場するハンナを思い出します。彼女は今から約3千年前にイスラエルの既婚の女性として歩んでいましたが不妊の人でした。当時、イスラエルではこのような不妊の女性は神の祝福から遠ざかっているとされていました。さらに、もう一人の妻、ペニンナのことばは苦痛に満ちたものでした。痛んでいる傷口に塩を擦り付けるようなものだったのでしょう。そのため、ハンナは泣き、食事も喉を通らなかったようです。夫のエルカナは愛の溢れた配慮をハンナにしました。しかし、それでも彼女の心は癒されなかったのです。ハンナはその痛みをすべて主に持っていきました。主の前に心を注ぎ出して祈り続けました。心を空っぽになるまで祈り続けました。その様子を見ていた、祭司エリは、この人が酒に酔っているのかと勘違いするほどでした。彼女は祭司エリに率直に自分の苦しみを告げました。その結果、どうなったのでしょう。その前にハンナの祈りが変化していったのです。私たちはよくこんな祈りをするでしょう。〇〇がありさえすればです。しかし、ハンナの祈りは〇〇がなくともに変化しているのです。この場合、自分に望んでいる通り、子供が与えられなくとも受け止めます。それを主のみこころとして。それは、何とも驚きの祈りの変化です。
 このように祈る母が私達に与えられているなら感謝なことです。また、そんな母親になることを目ざしていきましょう。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ、神は、われらの避け所である。」       (詩篇62篇10節)