幻(ビジョン)を見よ

 今月末で神が遣わされた岡部師退任となります。長年のご奉仕を感謝いたします。歴代教職最長十五年の奉仕でした。これから牧会者である教職不在になります。代わりに長老会が牧会責任者となります。私が長老になって、初めて長老会に出席した時、先生は定年と同時に退任すると発言されました。しかし、数日後に撤回をされて、その後、継続教職として三年仕えて下さいました。体力と健康面に不安を抱えられているご様子でした。いずれまた退任を申し入れるだろうと想定していました。出来ることなら、召されるまで能代で奉仕していただきたかったです。でも、先生が安心して奉仕できるような関係性と環境を築けませんでした。ただ先生に任せるだけで、中途半端に支えて来た結果なのかも知れません。

 一昨年、再び岡部師が退任を申し入れられた頃、教団教育部で牧師たちに、理想的な長老は誰ですか?と聞く機会がありました。名前が挙げられたのは、私の母教会の故広橋長老です。悪い長老の見本のような方だと思っていただけに驚きました。確かに牧師を熱烈に支えた長老でした。ところが、牧師と信徒の間に立たされた時に、「牧師の言うことは正しい」と言い張り、双方を取り成すことよりも、牧師ファーストを貫いた方でした。それが信徒間の分断と教会の分裂を招いたように、私の目には映りました。彼は牧師が一を言えば十を知り実行する長老でした。ある時、松山先生が説教のなかで「大リバイバルが起こり、会堂に人が入りきれなくなる時が来る。」と述べたそうです。土崎教会が見た幻(ビジョン)です。また大風呂敷を広げていると誰もが聞き流しました。でも、広橋長老は翌週から会堂にパイプ椅子を並べ始めたそうです。座る人が居なくても並べ続けたそうです。数年後、私が初めて礼拝に行った時、座ったのはそのパイプ椅子でした。会堂は人で溢れていました。あの頃、土崎教会の信徒たちは本気でリバイバルを信じていました。

 ところで、能代教会にもビジョンがあります。ビジョンを幻のまま片隅に追いやっていないでしょうか。いつも週報や月報の目立つところに掲載しています。「聖書の教えを堅く守り、交わりと聖餐の恵みに励まされて、人々の救いを求めて祈りに専念する教会」パイプ椅子を黙々と並べ続けるように、「人々の救いを求めて祈りに専念」しましょう。そして、私たちの祈りを先導するのは、「聖書の教え」です。神様のみことばそのものである主イエスです。主の御名を崇めます。

箴言29章18節「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」