真の礼拝者たち

 イースターと同時に、礼拝プログラムが変わりました。大舘教会に合わせるためです。そして、先聖日は大舘教会とオンラインで共に礼拝をしました。慣れないことが続いています。思わぬトラブルもありました。これで良いのか不安になります。でも、教職不在という現状において、各奉仕者たちの負担を軽減させて、教会の働きを持続させるための最善策であると考えています。この取り組みも必ず益とされることは間違いありません。
 先聖日(4月18日)は焦りました。礼拝の冒頭、スピーカーから音が出ないのです。それまで何度もテストをしていたのに、まさか本番でトラブルが起こるとは想定していませんでした。映像を切るとパソコンから音声だけは聞こえたので、映像無しで音声だけを聞いていただきました。でも、パソコン本体からの小さい音が出ているだけでした。それでも、集われた皆さんは不平も言わず、忍耐強く耳を澄まして下さいました。真の礼拝者たちを見たような気がしました。
 礼拝が終わった時、疲れを感じました。正直、説教奉仕よりハードワークでした。疲れた人を休ませる主の御元に来たというのに、疲れるとは何事でしょうか。疲れ知らずのスーパーマンはいません。それほど私たち人間は弱いのです。だから、休みと安らぎを与える主の御元でも、疲れる時もあるでしょう。何しろイエス様も疲れを覚えられました。
サマリヤの井戸の傍らで、イエス様は疲れて座っておられた時の出来事が、ヨハネの福音書4章にあります。そこで出会った女との受け答えの中で、イエス様は、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と仰っています。
 真の礼拝者とは、霊とまことによって礼拝をする人です。どういう人でしょう。父なる神の御前で嘘偽りのない礼拝をする人です。神から見て罪人でしかないのに、自分には罪なんか無いという虚勢を張って、礼拝をしてはならないのです。神様は私たちの全てをご存知です。隠しようがありません。だから、私たちは、罪を悔い改めて、心から主イエスを信じて、罪を赦されて救われました。しかし、救われていても罪人でしかありません。決して罪と無関係になった訳ではありません。従って何度でも罪を赦される必要があるのです。
 ル―テル同胞カテキズムに、「礼拝説教において公に罪の赦しが語られている」とあります。真の礼拝者のために、説教者を通して罪の赦しの宣言が、主日礼拝には間違いなく備えられています。勿論、宣言されるのは主イエスです。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」マタイの福音書9章2節