27日 10月 2021
10日、合川教会の小原博牧師が一年ぶりに来られて、「空の器、神が満たす」と題して説教をされました。貧しい家にあった油の壺から、隣近所から借りて来た空の器に、次々と壺の容量以上の油が注がれました。無から有を生み出す全能の神の業に驚かされます。最近、二十歳そこそこの東大生でもある科学者が、空気から油を作り出したというニュースを耳にしました。エリシャもびっくりでしょう。 空気中の二酸化炭素から重油を作り出したそうです。将来的にはガソリンも作れるそうです。この技術が実用化されるなら、2030年からのガソリン車販売禁止も必要なくなります。まさか化石燃料を燃やして空気中に排出された二酸化炭素から、化石燃料と同等の燃料を作り出せるとは驚きです。究極の再生可能エネルギーです。 アメリカの研究者は二酸化炭素から、タンパク質を作り出したとも聞きます。これでパンを作れぼ食糧問題も解決出来るかも知れません。二酸化炭素は、カーボンゼロだけではなくハンガーゼロまで実現させるのです。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたイエス様もびっくりされるでしょうか。 神様が創造されたこの世界は循環する世界です。たとえば空から地に降った雨は水蒸気となって空に戻ります。二酸化炭素も循環するように、神様は設計をされていたのです。温暖化の原因だと二酸化炭素を悪者扱いをして来ました。でも、二酸化炭素は悪くはありません。二酸化炭素を循環させることを妨げてた人間が悪かったのです。 創造主である神様は、「地を従えて…、生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)と人間に命じています。神様ご人間を地球の支配者としました。しかし、神様が造られた被造物を悪者に仕立て上げて、自分の悪いことを認めないで、悪の上塗りをする暴君のように、被造物を支配し続けています。被造物のうめきの一つが温暖化ではないでしょうか。 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。ローマ人への手紙8章20節 被造物を人間に服従させたのは神様です。決して人間の力で地球の支配者になったのではないのです。この先も人間による酷い支配は続くでしょう。しかし、被造物を人間に服従させたのは神様だから、そこには間違いなく望みがあるのです。今、群れを牧しているのは長老会です。牧師や伝道師のように神学校で教育と訓練を受けた者ではありません。酷い牧会者です。でも、これも神様が任じたという一点に望みがあります。
02日 10月 2021
特別伝道礼拝は5日に行いました。その三日前、大分県別府市の教会で、新型コロナウイルス感染症のクラスターが発生したという報道がありました。家に帰ると由利本荘で大きなクラスターが発生して、本荘教会が礼拝を休止したという連絡もありました。特伝中止という選択肢もありました。...
28日 8月 2021
先聖日、二人の予期せぬ来会者がありました。一人は礼拝に出席されましたが、もう一人は礼拝前に来られました。会堂のカーテンを開けたら、いつの間にか車が教会の駐車場の入り口付近に停まっていました。嫌な予感がしました。遠くから見て秋田ナンバーでないことに気づきました。もしかして、お盆の休暇中ですから、他県のクリスチャンが来てしまったことを察しました。でも、昨今のコロナ感染状況で来るのか?と思いました。 埼玉県の方でした。恵泉キリスト教会埼京のぞみチャペルの播義也牧師です。夏季休暇を利用して、アジア・アクセス・ジャパンという宣教団体の活動で、青森に向かう途中でした。中に入れるつもりはなかったのですが、トイレを貸して欲しいと言うので、仕方なく中に入れました。更に会堂を見たいと言うので、会堂の中にも入っていただき、少し話しをして祈ってから、お引き取りしていただきました。コロナ禍でなかったら大歓迎なのですが、県外からの突然の来訪には冷たい対応をせざるを得ません。心苦しさを覚えました。 しかし、礼拝参加は許されないと認識していたはずです。彼にはどうしても立ち寄りたかった理由がありました。それは恵泉キリスト教会の茨城県の教会で、奉仕されている金野正樹牧師から、立ち寄ることを頼まれたようです。以前、金野牧師のことは友子姉から聞いたことがありました。二ツ井出身で、ここで救われた方です。友子姉同様にご存知の方もいるでしょう。上京されて、定年後に牧師になられたようです。 播牧師と短い語らいの中で、秋田県の感染者数の少なさについて意見が一致しました。他県より感染対策が優れている訳ではなく、閉鎖的な県民性が効果を発揮しているということです。これは宣教についても言えるのではないかと指摘されていました。その通りだなと思いました。士師記18章にシドン人のライシュという閉鎖的で孤立した町が登場します。この町はどうなったでしょうか。 イスラエルのダン族によって滅ばされました。ライシュは神が聖絶を命じた相続地ではありません。従って本来なら滅ぼされることの無かった町です。でも、閉鎖的で孤立した町は滅び易いのです。 ダン族は自分たちの相続地を得ようとしていました。まだ割り当て地を攻め取っていなかったからです。士師記18章1節(リビングバイブル) ダン族は相続地を攻め取ることが出来ません。彼らの相続地にはホレブ人がいて、攻め込む余地が無かったのでしょう。でも、彼らが攻め込むのなら、神がそれを取らせて下さったに違いありません。何故なら神の約束の地であるからです。ところが、より組みやすい町を探し出して、ライシュを容易く攻略したのです。要するに神の約束を信じることが出来なかったのです。神の約束を信じていたら、閉鎖的な町は滅ぼされなかったはずです。そこにも滅びではなく救いが訪れたでしょう。私たちは神の約束を信じましょう。宣教と信仰生活も相続地を攻め取るような壮絶な戦いの日々であったとしても、神の約束を信じて立ち向かえば、間違いなく圧倒的な勝利者とされるでしょう。
25日 7月 2021
先聖日(18日)の宣教70周年記念礼拝は祝されました。でも、エアコンの対応力を上回る猛暑に、ひたすら耐える時間でもありました。この日に合わせるように、例年より早く梅雨が明けたからです。暑い日は続きます。熱中症対策を万全にして礼拝に臨んでいただきたいと思います。今年の梅雨は、静岡で大規模土石流という痛ましい災害もありました。今後は台風による災害が各地で起こると想定されます。日々の気象情報が気になります。 線状降水帯という気象用語を、天気予報などで聞くことがあります。温暖化に伴って、今まで聞きもしなかった現象が、数年前から突如現れたという印象を受けます。しかし、これまで起こった豪雨の気象データをスパーコンピュータで解析して、線状降水帯という積乱雲群の存在が明らかにされただけです。つまり今まで無かったのではなく、私たち人間が気付けなかっただけでした。 この発見は豪雨災害から多くの人を助けることができるものです。正に気象における目から鱗が落ちる。見えなかったことが見えるようになった発見ではないでしょうか。「目から鱗が落ちる」とは、使徒パウロが改心する劇的な出来事に由来するフレーズです。彼は主イエスを信じる者たちを迫害していました。ところが、パウロは主に出会い三日間目が見えなくなります。 「サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」使徒の働き9章18節 サウロとは改名前のパウロです。主は彼の元にアナニヤを遣わし、彼の目は再び見えるようになります。それまで見えなかったことが見えるようになります。見えるようになったのは、「うろこのような物」が目から落ちたからでした。「うろこのような物」とは何でしょう。主イエスを信じることを妨げる物であり、信仰者としてのあり方までも妨げる物です。それを取り除かれたパウロは、迫害する者から伝道者に変えられました。 さて、スーパーコンピュータに解析させることで、理解出来なかったことの多くが明らかにされているそうです。しかし、ある情報工学の専門家は、スーパーコンピュータは占い師でしかないと言いました。見事に当たることもあれば、大きく外すこともあるからです。膨大な国家予算を費やして、人間の叡智を結集させて開発した物なのに、答えが占いレベルなのは何故でしょう。 人間がスーパーコンピュータにデータを入力するからです。間違ったデータを入力してしまえば、たとえ世界一のスーパーコンピュータであっても、正しい答えを導き出すことは不可能です。要するに私たち人間が間違い易く、あやふやで当てにならない存在なのだということです。そんな人間の知恵や力を頼りにしてはいないでしょうか。それこそ、主との交わりを妨げる「うろこのような物」となっています。頼りなるのは主のみです。
05日 7月 2021
先月、父の日音楽会がありました。この行事は畑山兄の発案で始められて、何回目になるでしょうか。今回は駐車場に車が溢れる光景を初めて見ました。その時、「志のあるところに道は開ける」という言葉を思い浮かべました。誰の言葉かと調べたらリンカーンでした。...
21日 5月 2021
 本日(5月23日)はペンテコステです。イエス様が約束された聖霊が降られて、初代教会が勃興した歴史的記念日です。毎年、日付が変わる記念日だというのに、教団教派を超えて、同じ日にペンテコステ礼拝を行っています。クリスマスもイースターも、やはり同じ日に、各教会で礼拝が執り行われています。足並みが揃っているのは何故でしょう。それは教会暦があるからです。初代教会以来の歴史の中で、教会暦が形成されて、今も世界中の多くの教会が、教会暦に従って一年の計画を定めています。  ペンテコステは、イースターから50日目です。そのイースターは、二十四節気の「春分」以降、満月の後の日曜日と定められています。二日前、21日は二十四節気の「小満」でした。草木が青々と成長する頃を指しています。二十四節気は、太陽の動きから季節を指し示す暦です。では、教会暦は何を指し示す暦なのでしょう。教会暦は、新訳聖書の記述からイエス・キリストを指し示している暦です。  教会暦の一年の流れを理解して、その日その時の礼拝に集うのなら、折に触れて新訳聖書の出来事が身近に感じられるはずです。何故なら、教会暦はクリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日を中核に据えて、イエス様の誕生、公生涯、十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨、使徒たちによる宣教、教会を建て上げるという流れを辿っているからです。福音書と使徒書の記述をなぞるように、一年を過ごすことが出来ます。  ペンテコステは教会暦の大きな分岐点です。聖霊降臨節に入ります。アドベント(待降節)まで半年も続きます。聖霊が降られた時から、劇的に使徒たちは変えられました。主の復活の証人として、福音を宣べ伝え、各地で教会が建て上げられて行きました。今、私たちに託されていることと同じことをしています。彼らの後を追うような半年が、本日から始まりました。  今月の5日は、二十四節気の「立夏」でしたが、まだ朝晩はストーブを焚いていました。太陽から見て北半球が夏の位置になったのが「立夏」です。でも、低気圧で厚い雲が覆って、風が吹き雨も降るという気象条件によって、夏の始まりとは思えなかったのです。これから梅雨も待ち受けています。しかし、どんなに低気圧が居座り、雲が地表を覆い雨が降ろうとも、雲の上で夏の太陽は燦然と輝いています。  弟子たちの目の前で、イエス様は天に昇られました。目を凝らして空を見上げても、もうイエス様を見ることは出来ません。まるで雲が遮っているかのようです。ところが、雲は取り除かれました。約束の御霊が降られたからです。私たちの内に宿り、義の太陽であるイエス様から、恵みが降り注いでいるではありませんか。 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。マラキ書4:2
29日 4月 2021
 イースターと同時に、礼拝プログラムが変わりました。大舘教会に合わせるためです。そして、先聖日は大舘教会とオンラインで共に礼拝をしました。慣れないことが続いています。思わぬトラブルもありました。これで良いのか不安になります。でも、教職不在という現状において、各奉仕者たちの負担を軽減させて、教会の働きを持続させるための最善策であると考えています。この取り組みも必ず益とされることは間違いありません。  先聖日(4月18日)は焦りました。礼拝の冒頭、スピーカーから音が出ないのです。それまで何度もテストをしていたのに、まさか本番でトラブルが起こるとは想定していませんでした。映像を切るとパソコンから音声だけは聞こえたので、映像無しで音声だけを聞いていただきました。でも、パソコン本体からの小さい音が出ているだけでした。それでも、集われた皆さんは不平も言わず、忍耐強く耳を澄まして下さいました。真の礼拝者たちを見たような気がしました。  礼拝が終わった時、疲れを感じました。正直、説教奉仕よりハードワークでした。疲れた人を休ませる主の御元に来たというのに、疲れるとは何事でしょうか。疲れ知らずのスーパーマンはいません。それほど私たち人間は弱いのです。だから、休みと安らぎを与える主の御元でも、疲れる時もあるでしょう。何しろイエス様も疲れを覚えられました。 サマリヤの井戸の傍らで、イエス様は疲れて座っておられた時の出来事が、ヨハネの福音書4章にあります。そこで出会った女との受け答えの中で、イエス様は、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」と仰っています。  真の礼拝者とは、霊とまことによって礼拝をする人です。どういう人でしょう。父なる神の御前で嘘偽りのない礼拝をする人です。神から見て罪人でしかないのに、自分には罪なんか無いという虚勢を張って、礼拝をしてはならないのです。神様は私たちの全てをご存知です。隠しようがありません。だから、私たちは、罪を悔い改めて、心から主イエスを信じて、罪を赦されて救われました。しかし、救われていても罪人でしかありません。決して罪と無関係になった訳ではありません。従って何度でも罪を赦される必要があるのです。  ル―テル同胞カテキズムに、「礼拝説教において公に罪の赦しが語られている」とあります。真の礼拝者のために、説教者を通して罪の赦しの宣言が、主日礼拝には間違いなく備えられています。勿論、宣言されるのは主イエスです。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」マタイの福音書9章2節
29日 3月 2021
 今月末で神が遣わされた岡部師退任となります。長年のご奉仕を感謝いたします。歴代教職最長十五年の奉仕でした。これから牧会者である教職不在になります。代わりに長老会が牧会責任者となります。私が長老になって、初めて長老会に出席した時、先生は定年と同時に退任すると発言されました。しかし、数日後に撤回をされて、その後、継続教職として三年仕えて下さいました。体力と健康面に不安を抱えられているご様子でした。いずれまた退任を申し入れるだろうと想定していました。出来ることなら、召されるまで能代で奉仕していただきたかったです。でも、先生が安心して奉仕できるような関係性と環境を築けませんでした。ただ先生に任せるだけで、中途半端に支えて来た結果なのかも知れません。  一昨年、再び岡部師が退任を申し入れられた頃、教団教育部で牧師たちに、理想的な長老は誰ですか?と聞く機会がありました。名前が挙げられたのは、私の母教会の故広橋長老です。悪い長老の見本のような方だと思っていただけに驚きました。確かに牧師を熱烈に支えた長老でした。ところが、牧師と信徒の間に立たされた時に、「牧師の言うことは正しい」と言い張り、双方を取り成すことよりも、牧師ファーストを貫いた方でした。それが信徒間の分断と教会の分裂を招いたように、私の目には映りました。彼は牧師が一を言えば十を知り実行する長老でした。ある時、松山先生が説教のなかで「大リバイバルが起こり、会堂に人が入りきれなくなる時が来る。」と述べたそうです。土崎教会が見た幻(ビジョン)です。また大風呂敷を広げていると誰もが聞き流しました。でも、広橋長老は翌週から会堂にパイプ椅子を並べ始めたそうです。座る人が居なくても並べ続けたそうです。数年後、私が初めて礼拝に行った時、座ったのはそのパイプ椅子でした。会堂は人で溢れていました。あの頃、土崎教会の信徒たちは本気でリバイバルを信じていました。  ところで、能代教会にもビジョンがあります。ビジョンを幻のまま片隅に追いやっていないでしょうか。いつも週報や月報の目立つところに掲載しています。「聖書の教えを堅く守り、交わりと聖餐の恵みに励まされて、人々の救いを求めて祈りに専念する教会」パイプ椅子を黙々と並べ続けるように、「人々の救いを求めて祈りに専念」しましょう。そして、私たちの祈りを先導するのは、「聖書の教え」です。神様のみことばそのものである主イエスです。主の御名を崇めます。 箴言29章18節「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」
27日 2月 2021
 今年は、4月より週報がリニューアルされます。その中に十戒も組み込まれます。それで、改めて律法とは何であるかを見ていきたいと願っております。 Ⅰ律法とは何か?...
23日 1月 2021
       今年の教会の指標聖句は使徒の働き2章42節と願っております。この聖句は教会目標のことばとも重なります。...

さらに表示する