主の導きは不思議?

 今年の11月は「神学校を覚えて祈る月間」となりました。この背景には、今年の4月より神学校を再スタートさせても入学者が起こされないこともあるでしょう。また、現在の教職の高齢化もあるでしょう。6名の教職が継続教職(65歳以上)で奉仕していることもあるでしょう。その他の要因も考えられます。このような現状を考えますと、失望落胆に陥ってしまいます。

 しかし、それでもなお、私たちは望みを神に託して祈ることは出来ますいつの時代も多くの献身者(入学者)が起こされることはなかったのではないでしょうか? 来春、神学校への入学者が起こされるかは不透明です。

 しかし、考えてみますと、神の選び、導きは何と不思議なことでしょう! 

 Ⅰサムエル16:1~13目を留めていきますと、イスラエルの二代目の王ダビデの油そそぎの記述がなされています。「油をそそぐ」とは、王としての賜物が授けられるしるしとされています。ダビデはこの時、エッサイの八男でまだ若く、羊の番をしていました。エッサイの子どもたちがサムエルに招かれました。(ダビデを除いて)最初に長男エリアブを見て、預言者サムエル「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。(6節)と書かれています。しかし、神のみこころは違っていました。

主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と語られています。(7節)このように、主の選びは不思議です。人の見方と主の見方は必ずしも一致するとは限りません。もう一つのみことばを思い起こします。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

神の賜物と召命はどんなことがあっても変わることがないのです。感謝です。

 もし、神が召しておられる方がおるならば、その方が主の前に、そして人の前に自分の意志を表明出来るように祈ろうではありませんか? 

 私たちの教会でも働き人が起こされるように熱心に、継続して、粘り強く祈りましょう主の祝福がありますように。

 今年の11月は「神学校を覚えて祈る月間」となりました。この背景には、今年の4月より神学校を再スタートさせても入学者が起こされないこともあるでしょう。また、現在の教職の高齢化もあるでしょう。6名の教職が継続教職(65歳以上)で奉仕していることもあるでしょう。その他の要因も考えられます。このような現状を考えますと、失望落胆に陥ってしまいます。

 しかし、それでもなお、私たちは望みを神に託して祈ることは出来ますいつの時代も多くの献身者(入学者)が起こされることはなかったのではないでしょうか? 来春、神学校への入学者が起こされるかは不透明です。

 しかし、考えてみますと、神の選び、導きは何と不思議なことでしょう! 

 Ⅰサムエル16:1~13目を留めていきますと、イスラエルの二代目の王ダビデの油そそぎの記述がなされています。「油をそそぐ」とは、王としての賜物が授けられるしるしとされています。ダビデはこの時、エッサイの八男でまだ若く、羊の番をしていました。エッサイの子どもたちがサムエルに招かれました。(ダビデを除いて)最初に長男エリアブを見て、預言者サムエル「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。(6節)と書かれています。しかし、神のみこころは違っていました。

主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と語られています。(7節)このように、主の選びは不思議です。人の見方と主の見方は必ずしも一致するとは限りません。もう一つのみことばを思い起こします。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:29)

神の賜物と召命はどんなことがあっても変わることがないのです。感謝です。

 もし、神が召しておられる方がおるならば、その方が主の前に、そして人の前に自分の意志を表明出来るように祈ろうではありませんか? 

 私たちの教会でも働き人が起こされるように熱心に、継続して、粘り強く祈りましょう主の祝福がありますように。