2022年度指標聖句
小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
ルカの福音書12章32節
10日、合川教会の小原博牧師が一年ぶりに来られて、「空の器、神が満たす」と題して説教をされました。貧しい家にあった油の壺から、隣近所から借りて来た空の器に、次々と壺の容量以上の油が注がれました。無から有を生み出す全能の神の業に驚かされます。最近、二十歳そこそこの東大生でもある科学者が、空気から油を作り出したというニュースを耳にしました。エリシャもびっくりでしょう。
空気中の二酸化炭素から重油を作り出したそうです。将来的にはガソリンも作れるそうです。この技術が実用化されるなら、2030年からのガソリン車販売禁止も必要なくなります。まさか化石燃料を燃やして空気中に排出された二酸化炭素から、化石燃料と同等の燃料を作り出せるとは驚きです。究極の再生可能エネルギーです。
アメリカの研究者は二酸化炭素から、タンパク質を作り出したとも聞きます。これでパンを作れぼ食糧問題も解決出来るかも知れません。二酸化炭素は、カーボンゼロだけではなくハンガーゼロまで実現させるのです。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させたイエス様もびっくりされるでしょうか。
神様が創造されたこの世界は循環する世界です。たとえば空から地に降った雨は水蒸気となって空に戻ります。二酸化炭素も循環するように、神様は設計をされていたのです。温暖化の原因だと二酸化炭素を悪者扱いをして来ました。でも、二酸化炭素は悪くはありません。二酸化炭素を循環させることを妨げてた人間が悪かったのです。
創造主である神様は、「地を従えて…、生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)と人間に命じています。神様ご人間を地球の支配者としました。しかし、神様が造られた被造物を悪者に仕立て上げて、自分の悪いことを認めないで、悪の上塗りをする暴君のように、被造物を支配し続けています。被造物のうめきの一つが温暖化ではないでしょうか。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。ローマ人への手紙8章20節
被造物を人間に服従させたのは神様です。決して人間の力で地球の支配者になったのではないのです。この先も人間による酷い支配は続くでしょう。しかし、被造物を人間に服従させたのは神様だから、そこには間違いなく望みがあるのです。今、群れを牧しているのは長老会です。牧師や伝道師のように神学校で教育と訓練を受けた者ではありません。酷い牧会者です。でも、これも神様が任じたという一点に望みがあります。
特別伝道礼拝は5日に行いました。その三日前、大分県別府市の教会で、新型コロナウイルス感染症のクラスターが発生したという報道がありました。家に帰ると由利本荘で大きなクラスターが発生して、本荘教会が礼拝を休止したという連絡もありました。特伝中止という選択肢もありました。
12日の大館教会とのオンラインでの礼拝では、説教中に配信が停止してしまいました。いつか起こるだろうと恐れていました。でも、具体的に対策を準備していませんでした。やはり何事も対策を準備しておく必要があると痛感しました。今後、日本のどこでもクラスターは起こる可能性があります。集まることを一時的に止める決断を下さざるを得ない状況も想定して、準備をしておく必要もあるでしょう。
集まることを一時的であっても止めることは、教会にとって苦渋の決断ではないでしょうか。ヤコブは年老いてから苦渋の決断を下しています。彼らの住むカナンは飢饉が続いていました。そこで十人の息子たちを食糧を買いにエジプトに行かせました。応対したエジプトの支配者から、息子たちは間者だと疑われて三日間拘留され、シメオンだけが捕縛され投獄されてしまいます。疑いを晴らしてシメオンを開放するには、同行しなかった末弟ベニヤミンを連れて行かなくてはなりません。
ところが、支払ったはずの代金が、買った食糧の袋の中に入っていました。シメオンを解放するために、エジプトに行けばどうなるでしょう。あらぬ疑いは深まり、ベニヤミンを連れて行っても、ベニヤミンまでも投獄されてしまうかも知れません。事の顛末を聞いたヤコブは恐れます。かつて獣に殺されたヨセフ、今回はシメオン、次はベニヤミンと三人の息子を失うことになると嘆いて。決断を先送りにしたのです。
やがて買った食糧も底をつきます。ヤコブは先送りした決断を迫られ、対策を講じて息子たちを送り出します。対策は、第一に息子を失わないために、カナンの地の産物をエジプトの支配者への贈り物とすること、第二に食糧を買うために、前回の未払金と今回の買付金の二倍の金額も準備したことでした。姑息な人間の手段でしかありませんが、教会の様々な対策も姑息な物でしかありません。そして、疑いを晴らすために、ベニヤミンを同行させました。彼は祈りの言葉を息子たちに述べます。神の憐れみを求めて、失われるかも知れない二人の息子の帰還を願い祈りました。その最後の言葉です。
「私も、失うときには、失うのだ。」創世記43章14節
諦めの境地のような言葉です。失いたくないという気持ちを諦めたのです。たとえ失っても自分の願った通りではなく、神様のみこころだけがなされるように祈ったのです。結果、ヤコブの決断と対策は祝されました。二人の息子は失われず、死んだと思っていたヨセフまで失われていなかったのです。神のなされることは、私たちの想像を遥かに超えて、人間の対策以上の祝福があるのです。御名を崇めます。
先聖日、二人の予期せぬ来会者がありました。一人は礼拝に出席されましたが、もう一人は礼拝前に来られました。会堂のカーテンを開けたら、いつの間にか車が教会の駐車場の入り口付近に停まっていました。嫌な予感がしました。遠くから見て秋田ナンバーでないことに気づきました。もしかして、お盆の休暇中ですから、他県のクリスチャンが来てしまったことを察しました。でも、昨今のコロナ感染状況で来るのか?と思いました。
埼玉県の方でした。恵泉キリスト教会埼京のぞみチャペルの播義也牧師です。夏季休暇を利用して、アジア・アクセス・ジャパンという宣教団体の活動で、青森に向かう途中でした。中に入れるつもりはなかったのですが、トイレを貸して欲しいと言うので、仕方なく中に入れました。更に会堂を見たいと言うので、会堂の中にも入っていただき、少し話しをして祈ってから、お引き取りしていただきました。コロナ禍でなかったら大歓迎なのですが、県外からの突然の来訪には冷たい対応をせざるを得ません。心苦しさを覚えました。
しかし、礼拝参加は許されないと認識していたはずです。彼にはどうしても立ち寄りたかった理由がありました。それは恵泉キリスト教会の茨城県の教会で、奉仕されている金野正樹牧師から、立ち寄ることを頼まれたようです。以前、金野牧師のことは友子姉から聞いたことがありました。二ツ井出身で、ここで救われた方です。友子姉同様にご存知の方もいるでしょう。上京されて、定年後に牧師になられたようです。
播牧師と短い語らいの中で、秋田県の感染者数の少なさについて意見が一致しました。他県より感染対策が優れている訳ではなく、閉鎖的な県民性が効果を発揮しているということです。これは宣教についても言えるのではないかと指摘されていました。その通りだなと思いました。士師記18章にシドン人のライシュという閉鎖的で孤立した町が登場します。この町はどうなったでしょうか。
イスラエルのダン族によって滅ばされました。ライシュは神が聖絶を命じた相続地ではありません。従って本来なら滅ぼされることの無かった町です。でも、閉鎖的で孤立した町は滅び易いのです。
ダン族は自分たちの相続地を得ようとしていました。まだ割り当て地を攻め取っていなかったからです。士師記18章1節(リビングバイブル)
ダン族は相続地を攻め取ることが出来ません。彼らの相続地にはホレブ人がいて、攻め込む余地が無かったのでしょう。でも、彼らが攻め込むのなら、神がそれを取らせて下さったに違いありません。何故なら神の約束の地であるからです。ところが、より組みやすい町を探し出して、ライシュを容易く攻略したのです。要するに神の約束を信じることが出来なかったのです。神の約束を信じていたら、閉鎖的な町は滅ぼされなかったはずです。そこにも滅びではなく救いが訪れたでしょう。私たちは神の約束を信じましょう。宣教と信仰生活も相続地を攻め取るような壮絶な戦いの日々であったとしても、神の約束を信じて立ち向かえば、間違いなく圧倒的な勝利者とされるでしょう。
先聖日(18日)の宣教70周年記念礼拝は祝されました。でも、エアコンの対応力を上回る猛暑に、ひたすら耐える時間でもありました。この日に合わせるように、例年より早く梅雨が明けたからです。暑い日は続きます。熱中症対策を万全にして礼拝に臨んでいただきたいと思います。今年の梅雨は、静岡で大規模土石流という痛ましい災害もありました。今後は台風による災害が各地で起こると想定されます。日々の気象情報が気になります。
線状降水帯という気象用語を、天気予報などで聞くことがあります。温暖化に伴って、今まで聞きもしなかった現象が、数年前から突如現れたという印象を受けます。しかし、これまで起こった豪雨の気象データをスパーコンピュータで解析して、線状降水帯という積乱雲群の存在が明らかにされただけです。つまり今まで無かったのではなく、私たち人間が気付けなかっただけでした。
この発見は豪雨災害から多くの人を助けることができるものです。正に気象における目から鱗が落ちる。見えなかったことが見えるようになった発見ではないでしょうか。「目から鱗が落ちる」とは、使徒パウロが改心する劇的な出来事に由来するフレーズです。彼は主イエスを信じる者たちを迫害していました。ところが、パウロは主に出会い三日間目が見えなくなります。
「サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」使徒の働き9章18節
サウロとは改名前のパウロです。主は彼の元にアナニヤを遣わし、彼の目は再び見えるようになります。それまで見えなかったことが見えるようになります。見えるようになったのは、「うろこのような物」が目から落ちたからでした。「うろこのような物」とは何でしょう。主イエスを信じることを妨げる物であり、信仰者としてのあり方までも妨げる物です。それを取り除かれたパウロは、迫害する者から伝道者に変えられました。
さて、スーパーコンピュータに解析させることで、理解出来なかったことの多くが明らかにされているそうです。しかし、ある情報工学の専門家は、スーパーコンピュータは占い師でしかないと言いました。見事に当たることもあれば、大きく外すこともあるからです。膨大な国家予算を費やして、人間の叡智を結集させて開発した物なのに、答えが占いレベルなのは何故でしょう。
人間がスーパーコンピュータにデータを入力するからです。間違ったデータを入力してしまえば、たとえ世界一のスーパーコンピュータであっても、正しい答えを導き出すことは不可能です。要するに私たち人間が間違い易く、あやふやで当てにならない存在なのだということです。そんな人間の知恵や力を頼りにしてはいないでしょうか。それこそ、主との交わりを妨げる「うろこのような物」となっています。頼りなるのは主のみです。
本日(5月23日)はペンテコステです。イエス様が約束された聖霊が降られて、初代教会が勃興した歴史的記念日です。毎年、日付が変わる記念日だというのに、教団教派を超えて、同じ日にペンテコステ礼拝を行っています。クリスマスもイースターも、やはり同じ日に、各教会で礼拝が執り行われています。足並みが揃っているのは何故でしょう。それは教会暦があるからです。初代教会以来の歴史の中で、教会暦が形成されて、今も世界中の多くの教会が、教会暦に従って一年の計画を定めています。
ペンテコステは、イースターから50日目です。そのイースターは、二十四節気の「春分」以降、満月の後の日曜日と定められています。二日前、21日は二十四節気の「小満」でした。草木が青々と成長する頃を指しています。二十四節気は、太陽の動きから季節を指し示す暦です。では、教会暦は何を指し示す暦なのでしょう。教会暦は、新訳聖書の記述からイエス・キリストを指し示している暦です。
教会暦の一年の流れを理解して、その日その時の礼拝に集うのなら、折に触れて新訳聖書の出来事が身近に感じられるはずです。何故なら、教会暦はクリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日を中核に据えて、イエス様の誕生、公生涯、十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨、使徒たちによる宣教、教会を建て上げるという流れを辿っているからです。福音書と使徒書の記述をなぞるように、一年を過ごすことが出来ます。
ペンテコステは教会暦の大きな分岐点です。聖霊降臨節に入ります。アドベント(待降節)まで半年も続きます。聖霊が降られた時から、劇的に使徒たちは変えられました。主の復活の証人として、福音を宣べ伝え、各地で教会が建て上げられて行きました。今、私たちに託されていることと同じことをしています。彼らの後を追うような半年が、本日から始まりました。
今月の5日は、二十四節気の「立夏」でしたが、まだ朝晩はストーブを焚いていました。太陽から見て北半球が夏の位置になったのが「立夏」です。でも、低気圧で厚い雲が覆って、風が吹き雨も降るという気象条件によって、夏の始まりとは思えなかったのです。これから梅雨も待ち受けています。しかし、どんなに低気圧が居座り、雲が地表を覆い雨が降ろうとも、雲の上で夏の太陽は燦然と輝いています。
弟子たちの目の前で、イエス様は天に昇られました。目を凝らして空を見上げても、もうイエス様を見ることは出来ません。まるで雲が遮っているかのようです。ところが、雲は取り除かれました。約束の御霊が降られたからです。私たちの内に宿り、義の太陽であるイエス様から、恵みが降り注いでいるではありませんか。
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。マラキ書4:2
今月末で神が遣わされた岡部師退任となります。長年のご奉仕を感謝いたします。歴代教職最長十五年の奉仕でした。これから牧会者である教職不在になります。代わりに長老会が牧会責任者となります。私が長老になって、初めて長老会に出席した時、先生は定年と同時に退任すると発言されました。しかし、数日後に撤回をされて、その後、継続教職として三年仕えて下さいました。体力と健康面に不安を抱えられているご様子でした。いずれまた退任を申し入れるだろうと想定していました。出来ることなら、召されるまで能代で奉仕していただきたかったです。でも、先生が安心して奉仕できるような関係性と環境を築けませんでした。ただ先生に任せるだけで、中途半端に支えて来た結果なのかも知れません。
一昨年、再び岡部師が退任を申し入れられた頃、教団教育部で牧師たちに、理想的な長老は誰ですか?と聞く機会がありました。名前が挙げられたのは、私の母教会の故広橋長老です。悪い長老の見本のような方だと思っていただけに驚きました。確かに牧師を熱烈に支えた長老でした。ところが、牧師と信徒の間に立たされた時に、「牧師の言うことは正しい」と言い張り、双方を取り成すことよりも、牧師ファーストを貫いた方でした。それが信徒間の分断と教会の分裂を招いたように、私の目には映りました。彼は牧師が一を言えば十を知り実行する長老でした。ある時、松山先生が説教のなかで「大リバイバルが起こり、会堂に人が入りきれなくなる時が来る。」と述べたそうです。土崎教会が見た幻(ビジョン)です。また大風呂敷を広げていると誰もが聞き流しました。でも、広橋長老は翌週から会堂にパイプ椅子を並べ始めたそうです。座る人が居なくても並べ続けたそうです。数年後、私が初めて礼拝に行った時、座ったのはそのパイプ椅子でした。会堂は人で溢れていました。あの頃、土崎教会の信徒たちは本気でリバイバルを信じていました。
ところで、能代教会にもビジョンがあります。ビジョンを幻のまま片隅に追いやっていないでしょうか。いつも週報や月報の目立つところに掲載しています。「聖書の教えを堅く守り、交わりと聖餐の恵みに励まされて、人々の救いを求めて祈りに専念する教会」パイプ椅子を黙々と並べ続けるように、「人々の救いを求めて祈りに専念」しましょう。そして、私たちの祈りを先導するのは、「聖書の教え」です。神様のみことばそのものである主イエスです。主の御名を崇めます。
箴言29章18節「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」
イースターとは、キリストが死から復活されたことを祝う日です。今年もイースター礼拝を行います。
イースター礼拝
4月21日(日)午前10時30分~正午
人間にとって最も大きな問題は死です。死には誰も刃向かうことはできません。誰もが必ずいつかは死にます。死に抗うはことができる人はいません。ところが、キリストは死んで3日目によみがえることで、死を打ち滅ぼされたのです。死よりも強い方を信じ頼るなら、死を恐れる必要はありません。
「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」ペテロの手紙第一1章3節
キリストの復活には「生ける望み」があります。共に復活の主を礼拝しましょう。
新しい2019年が始まりました。信仰の歩みをヘブル書12:1-3から見ていきましょう。
Ⅰ 忍耐をもって走り続ける
一般的にですが、年齢を重ねていきますと物事に対する、ワクワク感が失われていくとの事です。ですから、時間の経過が早く過ぎ去っていくように感じるのです。では、信仰者の場合は如何でしょうか?ヘブル書12:1には、次のように記されています。「……私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」私達の信仰の歩みは、競走であって、競争ではありません。競争であるならば、他者との勝ち負けが出てきます。しかし、信仰者は、自分の前に置かれた歩みを主の手にすがりながら、自分のペース配分を進んでいくのです。その際に必要なことは、主にある忍耐でしょう。現代では、死語に近い言葉でしょうか?単なるやせ我慢とは本質的に違います。そして、天国への道は出来るだけ、身軽が良いでしょう。いっさいの、重荷やまとわりつく罪をかなぐり捨てて歩んで行きましょう。競争とは、神の国民全員が指定されている距離を自分のペースで走り切ることです。と書かれている信仰書がありました。納得です。
Ⅱ イエス・キリストを見失わないで
Ⅰの事柄を可能にするためには、イエス・キリストの眼差しを想い浮かべることも大切です。イエス・キリストは私達の罪の身代わりとなって残虐な十字架上で死なれました。そして、3日目に蘇りました。主を信じる者達には、日々、主のある希望と赦しが与えられております。何と感謝なことでしょう。また、主は知恵と知識に富んでおります。このお方には無尽蔵の宝が隠されています。自分を見るならば、弱さ、無力感、罪深さだけしかありません。しかし、目を転じて主に視線を合わすなら、そこには光が輝いております。主を、見失わないで主とともに、喜びと感謝の日々を今年も過ごさせていただきましょう。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのです。」 (コロサイ2:3)
マタイ24章からはこの世の終わりの こと、主の再臨の事柄が書かれています。それに引き続いて、25章では、天の御国のことがたとえで記されております。
Ⅰ タラントが与えられている
マタイ25:14-15の箇所には次のように記されております。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、もうひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」タラントは、「能力」と訳されています。これは、神が私たち人間に与えてくださった、肉体的、精神的のすべての才能や賜物と考えられます。一タラントは6,000デナリに相当するそうです。そして、当時の一デナリは通常の一日分の労働賃金とされていました。ですから、一タラントは6,000日分の労働賃金が与えられていることになります。一タラントでも多く与えられています。
Ⅱ タラントの生かし方について
五タラント、二タラントのしもべ達は、喜んでタラントを生かし、商売をして、それぞれ倍にして儲けたと記されております。しかし、一タラントのしもべは、何もせず、与えられたタラントを地に掘って隠したと書かれております。それは、恵みを隠したようなものでしょうか?ここには、すべての人に与えられている自由意志と選択が関わっていると知らされます。それを神との結びつきの中でどのように生かしているかが問われることでしょう。
Ⅲ ご主人の対応について
五タラントと二タラントとのしもべへのことばは同じです。マタイ25:21「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に、忠実だったから私はあなたにたくさんの物を任せよう……。」それに対して、一タラントのしもべには叱責のことばが語られています。なぜ、このような違いが生ずるのでしょう。一タラントのしもべは、神を恐い存在として捉えているのです。しかし、心配は無用です。神は私達の性格の弱さも強さも苦手な事柄もすべてご存じです。そのお方に喜んで与えられたタラントをお返ししましょう。
Ⅰ 私達は失望しやすい者です。
ルカ18:1には「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを、弟子 達に教えるために、たとえが書かれています。不正な裁判官とやもめ女とのやりとりです。それは、ルカ18:2-6に記されています。やもめ女に注目していきます。裁判官の所に頻繁にやって来ては、「私の相手をさばいて、私を
守ってください」同じ事を繰り返し、訴え続けたのです。ついに、この不正な裁判官は根負けをしたかのように、彼女の訴えを取り上げていくのです。ルカ18:4-5のみことばです。「彼はしばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに、『私は神を恐れず人
を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
彼女の姿勢から教えられることは、一回で諦めない、不屈の精神を教えられます。それは、主に対する熱心さの現われでもあります。切なる動機でもあります。私達は主に対して、このような切実な思いがどれほどあるでしょうか? 心が探られます。
Ⅱ 祈り続ける大切さについて
私達は同じ事を継続するのが。困難、あるいは苦手ではないでしょうか?なぜでしょう。それは、当然ですが、飽きるからです。「継続は力なり」このことばを思い起こしますが…。
さらに、サタンも囁きます。祈りに関して、「そんなに祈っても、無駄だよ。何の変化もないでしょう」等とまことしやかな言葉で信仰者を悩まします。そんな惑わしに心を引かれないようにしましょう。先程の女やもめが不正な裁判官に訴えたように、「執拗に」「熱心に」「人の目を気にせずに」「祈ることをやめない」、現代ではこのような心
持ちはあまり受け入れられないでしょうが。みこころに叶う祈りは時が満ちて応えられるのですから。主に期待しましょう。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)
神の選びは何とも不思議です。イス ラエルの第一代目の王サウルの選びも不思議でした。それに引き続き、第二代目の王ダビデの場合はその思いがさらに強くなります。
Ⅰ サウルについて
サウルの名前の由来は「求める」とう意味があるそうです。彼はイスラエルの民の欲求の故に王に駆り出された人物と言っても良いでしょう。そして、彼の最初のスタートは良かったです。しかし、働きの途中から神への不従順が生じてきました。その理由は色々あったことでしょう。彼自身の弱さ、戦況の悪化、部下達の離反等。しかし、何よりも決定的な事は、サウルが神のことばよりも自分の思いを押し通したことにあると言えます。自分の我を通したのです。これがイスラエルの王として退けられた決定的な理由だったと言えます。サウルの一生は次のみことばに凝縮されています。Ⅰサムエル14:52「サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力ある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた。」これは、人脈に頼り、策に溺れ、人に頼り切る彼の生涯をよく現しております。神のみことばに聞き従う姿勢が養われていなかったのは何とも残念です。
Ⅱ ダビデについて
タビデはエッサイの八番目の息子でした。サムエルの前にエツサイの子供達が次々と現われてもイスラエルの王としての「油注ぎ」をする人物ではないと語っております。Ⅰサムエル16:7「…彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る」では、ダビテはどんな人物だったのでしょうか。Ⅰサムエル16:18「…琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」最後の主がこの人とともにおられます。これは主の働きを進めるには最も重要な事です。残念ながらサウルにはそのような記載はありません。ダビテも失敗を経験しました。しかし、悔い改め、主を見上げて立ち直っていきました。感謝です。
今年の父の日は6月17日でした。十戒の「あなたの父と母を敬え」を思い起こします。
ところで、父の日の起源(一昨年も書きましたが)は母の日と同様にアメリカから起こったとされています。ワシントン州に住むドット婦人の提唱によるものとされています。彼女の父親は妻に先立たれ、男手一つで彼女を含め6人の子供を育てたといわれております。男の人が女の人の役割も担うことはどれ程、大変なことだったでしょう。父の日は1909年6月19日が最初で、徐々に拡がり、1972年にアメリカの正式な祝日になりました。日本には1980年代から一般的な行事となったようです。
では父親の役割とは何でしょうか。
一つの信仰雑誌には、母親は「つなぐ役割」、父親は「切る役割」と書かれていました。具体的には母親は「そのままでいいんだよ。」と許す役割です。父親は「こうしなければならない」とルールを示す役割です。ちょうど、律法と福音の役割に似ている
と思います。しかし、現実には思うよ
うにいかない事が多いでしょうが。
では、クリスチャンの親としてどの
ように子供と接していけば良いのでし
ょうか。
自分の子供を心から愛することは共通
していることでしょう。マタイ7:9-11
は次のように記されております。
「あなたがたも、自分の子がパンを下
さいと言うときに、だれが石を与える
でしょう。また、子が魚を下さいと言
うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者で
はあっても、自分の子どもには良い物
を与えることを知っているのです。と
すれば、なおのこと、天におられるあ
なたがたの父が、どうして、求める者
たちに良いものを下さらないことがあ
りましょう。」父なる神は私たちにと
って有益なものや必要なものを与えて
くださるお方です。何よりもクリスチ
ャンの親は子供のために祈る特権が与
えられております。そして、子供たち
がみことばに親しむことができるよう
に、まず親自身がその姿を時折、かい
ま見せることが大切ではないでしょうか。
今年のペンテコステ(聖霊降臨日)
は5/20でした。使徒の働き2章1節以
降にその事実が記されています。この
箇所は何度読んでも不思議な現象だと
思われます。ペンテコステに関して3
つの事柄を取り上げます。
Ⅰ 聖霊が与えられる約束について
イエス・キリストは復活後、40日間
約500人の人々に姿を現わされたと記
されています。そして、主は昇天の直
前に弟子達に次のようなことばを語っ
ています。使徒の働き1:4-5
「彼らといっしょにいるとき、イエス
は彼らにこう命じられた。『エルサレ
ムを離れないで、わたしから聞いた父
の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバ
プテスマを授けたが、もう間もなく、
あなたがたは聖霊のバプテスマを受け
るからです。』」このようにして弟子達
は主の約束を握り忍耐と希望をもって
待ち望んだのです。私達も主の約束を
待ち望みましょう。
Ⅱ 聖霊が与えられる
使徒の働き2章1節以降には、弟子
達に聖霊が与えられる様子が次々と記
されています。
使徒の働き2章2節~4節
「すると突然、天から、激しい風が吹
いてくるような響きが起こり、彼らの
いた家全体に響き渡った。また、炎の
ような分かれた舌が現われて、ひとり
ひとりの上にとどまった。」その結果と
して、みなが聖霊に満たされ御霊が話
させてくださるとおりに、他国のこと
ばで語り出したのです。常識をはるか
に超えた不思議な出来事です。
Ⅲ 初代教会が形成される
聖霊に満たされたペテロが人々に説
教を語りました。この時、約3,000名
の人々が洗礼を受けたと書かれていま
す。その後、教会では人々は何をした
のでしょう。
使徒の働き2:42「そして、彼らは使
徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、
パンを裂き、祈りをしていた。」
これは現在の教会生活の基本です。
時代は変化しても、教会生活の基本を
大切にしながら、各自の賜物が生かさ
れていくことを目指していきましょう。
そこにこそ、キリストにあって一つで
ありながら、多様性の拡がりと豊かさ
を見るこができます。
今年のイースターは4月1日でした。イエス・キリストの復活の出来事は弟子達にとっても何とも信じ難いことでした。主は復活後されてから昇天までの間、40日間、約500人の人々に姿を現したとされます。それが十字架刑に架かられる時の姿であったかは解りません。
ルカ24章13節以降にはエマオの村に行く途中の二人の弟子達のことが記されています。二人は復活されたイエス・キリストが共に歩いておられたのに分からなかったのです。それは、霊の眼が遮られていたからです。あるいは霊の眼に覆いが掛けられていたからでしょう。次のみことばを思い起こします。Ⅱコリント3:15-16 「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くならそのおおいは取り除かれるのです。」主に人が向くなら主ご自身がそのおおいを取り除いて下さるのです。感謝なことです。
また、復活の主と出会うことは心がうちにあつく燃えることだと聖書から知らされます。それは復活の主が与る「新しいいのち」をいただいているからなのです。その内側は永遠のいのち、罪の赦し、悪魔からの解放などが恵みとして与えられます。私たちは、主が与えたモーセの律法の前に出る時何という罪人だと思わされます。自分の罪深さを知らずして悔い改めには導かれません。ましてや、主の十字架の贖いを知ることも出来ません。しかし、自分の罪を知らされ悔い改めに導かれたその時、十字架は輝いて迫ってきま
す。その結果として、今、自分が置かれた所にあって主の証人として歩むことが出来るようになるのです。イエス・キリストを知らない人々は、望みのない、恐れに取り囲まれて、暗黒をさまよって苦しんでいるのですか
ら。イエス・キリストを機会ある度にお伝えしましょう。真の解決と希望はイエス・キリストにあります。イースターは喜びと希望の日です。日々、希望、賛美、感謝、喜びに溢れて信仰生活を歩んでいきましょう。イースターおめでとうございます。
今年の受難節は2/14~3/31迄です。私たちはこの期間を主の苦難を思い浮かべましょう。そのことのゆえに罪の赦しが与えられている恵みを新たにさせていただきましょう。
ゲッセマネの園の祈りの箇所は主の苦難の祈りが端的に記されております。ルカの福音書では、弟子達とともにオリーブ山のゲッセマネの園で祈られました。ルカ22:39には次のように記されております。
「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」私達もいつもの場所、いつものように祈っているでしょうか?必要ならば祈りの祭壇を築き直すことも求められているでしょう。
次に祈りの内容です。ルカ22:42の箇所です。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」神でありながら、人としての肉体を主は持っていたのでこの祈りは激しい苦闘の祈りだったでしょう。汗が血のしずくのように地に落ちるほど祈られたのですから。私達にとっても、みこころに添う祈りを捧げることは時として何と困難なことでしょう。
それは自分の内側にある自我との戦いがあるからです。
やがて、主の祈りは勝利へと変えられていきました。ルカ22:45には次のように記されています。「イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。」苦闘の祈りからどれ程の時間が経過したでしょう。イエスは祈り終わって立ち上がり、このところに、勝利の祈りへと変えられていることを知ることが出来ます。まもなく、主は捕えられ、不合理な裁判を受け、ついに十字架刑へと進まれていったのです。
イエス・キリストの苦難のゆえに、私たちは神と和解させて頂き、主の赦しに与かっているのです。感謝です。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私達が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえ
にあなたがは、いやされたのです。」
今年の教会の定期総会は1/28(日)でした。それから、実際的な働きが始動しております。今年の指標聖句は昨年と同様です。従来の良き事柄は残しつつ、新しい事も取り入れていけたらと願っております。
ところで、教会という言葉は「エクレーシヤ」が使われているのはご存じの事と思います。これは「呼び集められた者」あるいは「神の民の集まり」と訳されております。言葉の意味を追っていきますと教会とはキリストによって召されたキリストにある生きた共同体とも言えます。どこまでもイエス・キリストが中心です。そのように考えますと救いに与かった一人一人は尊い宝の民だと言えます。また、教会生活と信仰生活とは決して切り離すことの出来ない必然的な結びつきでもあります。
そして、イエス・キリストに連なる者達にはそれぞれ、賜物あるいは役割が与えられておれます。エペソ4:11には次のように記されています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師としてお立になったのです。」一人一人に与えられた役割は異なりますが、その使命を与えてくださったのは主自身です。ですから、その働きを果たすための力も主が与えて下さいます。それは、キリストのからだ(教会)を建て上げためなのです。ですから、高ぶりや悪巧みや人を欺く悪賢い策略によって惑わされないようにしましょう。それよりも、キリストの愛に満たしていただきましょう。そして、キリストにある一致をもって、調和によりそれぞれの賜物が生かされていくことを目指して歩んでいきましょう。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しつかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」エペソ4:16
信仰生活の歩みが豊かに祝福され ますように。また、互いに必要を覚えて祈り合いましょう。
創世記1章1節には「初めに、神が天と地を創造した。」と記されております。初めから神が存在し、すべてを創造したことを知らされます。神は6日間でこの天地、そして人間を創造されました。特に人間を造られた時、「それは非常に良かった。」と深い満足感を覚えられたのではないでしょうか?最初の人間アダムとその妻エバはエデンの園(歓喜または喜びの意味)で仲睦ましく暮らしていたようです。そして、エデンの園にはたくさんの木があり、多くの実をつけていたようです。創世記2:16-17には次のように記されています。「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」このように前もってアダムは警告を受けていました。しかし、創世記3章に入りますと蛇(サタン)の惑わしにより、罪が入った事実を知らされます。創世記3:1のみことばです。「蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」これがサタンの惑わしの第一声だったのです。サタンは巧妙でしかも狡猾です。エバはこれは推測ですが、彼女自身も気づかぬうちにサタンの罠に陥ったのかもしれません。それが、自分だけでなく夫アダムにも影響が及んでいきました。残念な罪の拡がりです。それに対して、神はアダムに声をかけられました。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)エバに対しては次のことばをかけられました。「あなたはいったいなんということをしたのか。」(創世記3:13)そして、神は蛇(サタン)に宣言しています。「わたしは、おまえと女との間に、……敵意を置く。彼は、頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)彼はイエス・キリストをさし示しているといわれます。ここから、イエス・キリストによる救いの始まりが予告されているのです。神の愛を強く感じさせられます。
今年も昨年以上に勝利の主イエス・キリストにより頼んでいきましょう。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21) 12月に入りますと街やお店はクリスマス一色に彩られたようになります。しかし、本当のクリスマスからは程遠いように思われます。
ところで、旧約時代から救い主の誕生を待ち望み、預言の成就を確信していた人々が多くいました。イエス・キリストの養父ヨセフもその一人でした。
Ⅰマリヤの懐妊に困惑するヨセフ
この当時、ヨセフはマリヤと婚約していましたがそれは結婚を前提としたものでした。実際の結婚生活をしてはいなくともこの婚約期間に女性に不貞があれば、厳罰に処せられる時代でもありました。ヨセフがマリヤの懐妊を知らされ、疑惑、困惑、苦悩に陥ったことでしょう。また、マリヤに対する不信感も湧き上がってきたことでしょう。それらの思いを超えて彼女を何とか内密に去らせようと決意したと聖書に記されております。
Ⅱ主のみ使いが夢に現われる
ヨセフの夢の中に主の使いが現われ、マリヤの懐妊の出来事について告げられました。マタイ1:20~21「~主の使いが夢に現われて言った。『恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、自分の民をその罪から救ってくださる方です。』」この知らせは、ヨセフにとって驚き、衝撃の事実だったに違いありません。旧約時代から預言されていた救い主の誕生が自分の妻の胎に宿っているとは……。
Ⅲみことばに従うヨセフ
ヨセフは夢で告げられた主の使いのことばを受け入れます。聖書には淡々と事実のみ記されております。彼の心中はどうだったでしょうか?葛藤、戦い、迷い等あったことでしょう。その後の彼らに対する中傷などすべてを受け入、覚悟したともいえます。しかし、主の助けによってそれらを乗り越えられていった時、きっと二人は平安に満たされたことでしょう。
クリスマスおめでとうございます。
11月2日~4日まで教団主催で開催された「ルター500聖会」の講師が語っていたことばが印象に残っています。クリスチャンとは「自分で自分を救うことから解放された人々」という表現をされていました。
マルチン・ルターを通してなされた宗教改革以前は、神の救いに関して次のように教えられていました。神の救いに与かるためには、神に受け入れられる善行の功績が必要とされていました。それに対してルターは、聖書から福音の再発見をしました。三つの「のみ」がありますが、特に信仰のみ(信仰義認)は先述の「自分で自分を救うことから解放された人々」に合致します。神の恵みに感謝します。
では、恵みによって救われた者達の信仰の歩みはいつも勝利に導かれているでしょうか?残念ながらそうではないでしょう。Ⅰヨハネ5:4-5には次のように記されています。
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つとはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」イエス・キリストご自身は罪と死と悪魔から勝利されたお方なのです。クリスチャンはこの圧倒的な勝利の主ご自身を内住しているのです。何と心強く、平安に満たされていることでしょう。しかし、現実の歩みの中で主を見失しないがちになります。その時はもう一度、いや何度でも悔い改めつつ、十字架の主を見上げることです。その時、「あなたの罪は赦されたのです。」という赦しの宣言のことばを聞くことでしょう。そして、再び信仰の歩みを進めていくのです。
私たちは信仰生活をあまり難しくしないことが大切です。そして、継続です。継続は力なりです。
そのためにも私たちはもっと切実に主に叫び求めることが必要ではないでしょうか?そして、圧倒的な勝利の主によりすがって歩むことです。
いつか信仰生活の歩みを振り返る時、そこには恵みの足跡がくつきりと残っているのを見出すことでしょう。
暑い日々も終わりに近づきつつあります。教会では9/2(土)、9/3(日)に特別伝道集会を計画しております。そのことに関連してふと、改めて証しとは何か考えさせられました。聖書には主の証し人が次々と登場して来ます。その一人が、イエス・キリストと出会って真の悔い改めに導かれ、全く変えられたサマリヤの女を思い起こします。彼女は証の見本のような人物ではないでしょうか?
彼女が登場するのはヨハネ4章4節以降です。ヨハネ4:7では次のように記されています。「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。」これがイエス・キリストとサマリヤの女との最初の出会いでした。それは不思議な出会いでした。当時、聖書に記されている通り、ユダヤ人はサマリヤ人とは交流しませんでした。(歴史上の変遷を経て)さらに、当時、ユダヤ人男性がサマリヤ女性に声を掛ける等あり得ないことでした。イエス・キリストとの会話から身体の渇きから霊の飢え渇きへ話題が移っていきました。彼女は次のように主に語っております。15節「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」これに対して「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」これが彼女の闇の部分、罪だったのです。そのところを主は鋭く突いてきました。しかし、彼女は苦しくても、辛くてもそこから逃げませんでした。ここから、真の悔い改めが始まったのです。彼女は5回も結婚しながら破綻し、現在は同棲中という自堕落な生活の中にあったのです。しかし、心の深い部分で呻き、空しさ、満たされない思いがあったのでしょう。それが、イエス・キリストとの出会いによって全く変えられたのです。人目を忍んで隠れた生活をしていた者が人々の中に入っていったのです。ここに真の証し者が誕生しました。
イエス・キリストの恵みが彼女を変えたのです。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
今年は6月の第4週から7月に亘ってネヘミヤ記を取り上げています。
彼の特徴は一言で言うなら、祈りの人であることが挙げられると思います。ネヘミヤの名前は「主は慰めたもう」の意味があるそうです。彼は他の人々を慰める人でもあったのでしょう。
ところで、ネヘミヤ記が書かれた当時、彼は捕囚の民として異国ペルシャにいました。そこで、王の献酌官の仕事をしていました。それは、王の食事の毒味係です。これは王との信頼関係が確立されてこそなされる働きです。
そのような時、一つの報告が舞い込んできました。それは、祖国エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き払われたということです。ネヘミヤは心配のあまり、性急に行動に移したでしょうか?そうだはありません。彼は約3~4カ月間祈りました。祈りながら王の前に出る機会を待ち望んでいました。
ネヘミヤ2章1節「アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、」と
書かれています。これはBC445年太
陽暦の3月から4月に相当するようで
す。ついに王に自分の願いを申し出る
機会が与えられました。彼の思いを推
測すると、大変、緊張と勇気のいるこ
とだったでしょう。幸いなことに王の
側からネヘミヤに語りかけています。
ネヘミヤ記2章2節「……きっと心に
悲しみがあるに違いない。」それに対して彼は答えています。5節「…私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。」6節「…旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」驚くべきことにネヘミヤを願い通り祖国に送り出してくれると言うのです。ここに、彼が祈った答えを見出すことが出来ます。考えてみますと彼は日常生活で祈りに取り囲まれていたのでしょう。私達も順境の時も逆境の時も感謝をもって祈り続ける人になりたいものです。そして、私達も祈りの祭壇を築き直し、あらゆる事柄に祈りを通して主に期待していける者とさせていただきましょう。
お一人お一人の歩みが祝福されますように。