失われた人を捜して

 今年の父の日は6月21 日でした。 母の日に比べて何となく盛り上りに欠けるのは否めまん。しかし、その由来を知ると自分の父親に対する思いが変えられます。それは、メリカのジョン・ブルース・ドッ夫人から始められていす。彼女の父親は妻に先立たれ、彼女を含めて6人の子ども手一つで育て上げたそうです。それで、ドット夫人母の日があるならば「父の日」の必要性を考え1909年6月19日に定を提唱したそうです。それから徐々に日本にも伝えられたのです。一般の人の父の日の思い出はどんなものがあるでしょう。一人の方の投稿を紹介します。(インターネトによる)「父の日の思い出は、もうずっと昔ですが父の日の為にと頑張って作った眼鏡ケースを入れるラッピングの袋を捜しに行って帰ってきたらラッピング袋だけで肝心の眼鏡ケースを落として来ていました。泣く私に父はありがとう!!と言ってくれたのを今でも温かい気持ちで思い出します。麗しい親子の姿が想像されます。 

 ところで、そのような人間の愛をはるかに超えて父なる神の姿のすばらしさルカ15章11節から放蕩息子のたとえが記されていますこのたとえは聖書の中でも特に有名です。父から頂いた貴重な財産を湯水のように使い果たした愚かな息子を父は暖かく、喜んで迎え入れています。しかも、他の人々を招いて祝宴までも行っているのです

 考えてみますと、私たちも神を知る以前は罪にまみれた邪悪な歩みだったのではないでしょうか。それが、神に見出され、イエス・キリストの救いに与かり神の子どもと呼ばれる者とさせていただいたのです。感謝! 感謝! このことばを何回言っても足りないくらいです。心は徐々に喜びと賛美に満ち溢れます。

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」(ルカ15:24)

 信仰生活がさらに豊かな実りある歩みとなりますように。