みことばに感動して

 8月は暑い日々が続きました。は渇くし、汗はだらだら流れるし、体も何となくだるいしなどと思って過ごした方も多かったのではないでしょうか? 熱中症の心配もあったりして。これは、考えてみれば、毎年の季節の移り変わりに伴う身体の自然現象とも言えるのではないでしょうか? 

  しかし、身体の自然現象のように、みことばに対する飢え渇きはどうでしょう。聖書を読むことは、霊的な食物を食すること、祈りは神との会話あるいは交わりであると教えられても、それに従うかどうかは一人一人に委ねられているのです。どれほど、みことばに対する飢え渇きや必要性を、今、覚えておられるでしょうか? 心を探られます。また、どんなにみことばを聞いたとしてもそれだけでは中途半端なのです。従うことによってみことばがその人のうちに生きて働き、力となり霊的財産となるのです。

  ネヘミヤ記8章に登場するイスラエルの人々もみことばに対する飢え渇きが激しかったようです。その背景には、エルサレムの城壁は崩れ果てたまま約

約140年も放置されていた事実がありまた。その状況を聞いたネヘミヤは異国の地(ペルシャ)にいなが心を痛め祈っておりました。そして様々な備えや人々の寛大な協力もありBC445年エルルの月に城壁は完成しました。(52日間)8章には城壁完成をお祝いする人々が集まってきました。人々はまず祭司に何を求めたでしょう。それは、みことばを聞くことでした。そのことを祭司エズラに願い求め、長時間にわたりみことばを聞き続けました。応答として感動や悔い改めの涙されました。ネヘミヤは彼らに言いました。「~私たちの主のために聖別された日ある。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ(ネヘミヤ8:10)主を喜ぶことはあなたがたの力であるから

 私たちもっと、みことばに親しみながら、主ご自身を喜ぶ者とさせていただきましょう。

 ある中国婦人伝道者のことばです。

「みことばを学ぶことはとても大切です。でももっと大切なのはみことばを蓄えることです。それよりももっと大切なことはみことばに生きることなのです。」