信仰がなくならないように

今年の受難節は2/10~3/26でした。改めて、イエス・キリストの受難の意味を思い巡らされます。地上の主の生涯は新聖歌99番「馬槽の中に」示されている通りだと思わされます。 

1 イエス・キリストの受難は私たちの罪の身代わりのためでした。

  主は神の御子でありながら、私達と同じ肉体をお持ちでした。主は弟子達との最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で、祈られた祈りは、汗が血のしずくのように地に落ちたと書かれています。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

 (ルカ22:42)

 この祈りを通して、私達の罪の身代わりとなって処刑されるために十字架に進んでいかれたのです。

2  ペテロの挫折について

 ペテロは主を否む前はこんな勇ましい忠誠を誓っています。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」その舌の根も乾かない数時間後、主の予告通り、3回、続けて主を否んでおります。何と、人の決意や意志は脆い、そして当てにならないものでしょう。しかし、失望することは決してありません。悔い改めとその後に続く、赦しがあります。真の悔い改めには、心の痛みと涙が伴うものだと思わされます。

3 主は私たちのために祈ってくださっています。

 私達はペテロ以上に弱く、脆い存在ではないでしょうか? そのため、主は私達のために絶えず、祈ってくださいます。感謝なことです。そのために、もっと罪に対して、敏感になる必要があるでしょう。 ますます、主の十字架の主を見あげつつ、足跡を辿ってんでいきましょう。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

(詩篇139:23-24)