平和と聖さを追い求めて


 私たちは日々、何を追い求めて歩んでいるでしょうか?
 ところで、ヘブル書の主要なメッセージは、主にある忍耐とされています。また、同時に信仰の成熟を目指すことでもあります。ヘブル書全体の鍵のことばは6章1節と言われております。「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。…」これは、決して基礎的な事柄をなおざりにするのではありません。基礎的な事柄の上に立ってこそ成熟を目ざしていけるのです。
Ⅰ 主にあっていやされる
 ところで、ヘブル書12:12-13に記されている、弱った手、衰えたひざは、ぐったりした手や、ひょろひょろの足を連想させます。この箇所はユダヤ人の間では、失望、落胆、萎縮、沈滞の状態を表す表現とされていました。しかしながら、時至って、マイナスと見える事柄がすべて、主から来たものだと気づかせていただけるなら幸いです。そして、大いに慰められます。また、主にあって癒されることに繋がっていくのです。そのためには、主のことばを聞き続けることが大切です。そして、主に示されたことに従うのです。
Ⅱ 平和と聖さを追い求める
 14節の箇所には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。…。」と記されています。(聖)の本来の意味は、より分けられる、取り分けられるです。どこからより分けられるのでしょう。それは、この世からです。私たちを聖めて下さるのは主ご自身です。そのために私たちは、何かをするのではなく、ひたすら主に心と思いを向けるのです。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」(マタイ5:8)
私たちは本来、罪ある者として、神に近づくことの出来ない存在でありました。にもかかわらず、イエス・キリストの贖いを通して、神の前に大胆に近づける者とされたのです。喜びが沸き上がってきます。 
 感謝しつつ、神に近づきつつ、主に感謝をささげましょう。