失うときは、失うのだ

特別伝道礼拝は5日に行いました。その三日前、大分県別府市の教会で、新型コロナウイルス感染症のクラスターが発生したという報道がありました。家に帰ると由利本荘で大きなクラスターが発生して、本荘教会が礼拝を休止したという連絡もありました。特伝中止という選択肢もありました。

12日の大館教会とのオンラインでの礼拝では、説教中に配信が停止してしまいました。いつか起こるだろうと恐れていました。でも、具体的に対策を準備していませんでした。やはり何事も対策を準備しておく必要があると痛感しました。今後、日本のどこでもクラスターは起こる可能性があります。集まることを一時的に止める決断を下さざるを得ない状況も想定して、準備をしておく必要もあるでしょう。

集まることを一時的であっても止めることは、教会にとって苦渋の決断ではないでしょうか。ヤコブは年老いてから苦渋の決断を下しています。彼らの住むカナンは飢饉が続いていました。そこで十人の息子たちを食糧を買いにエジプトに行かせました。応対したエジプトの支配者から、息子たちは間者だと疑われて三日間拘留され、シメオンだけが捕縛され投獄されてしまいます。疑いを晴らしてシメオンを開放するには、同行しなかった末弟ベニヤミンを連れて行かなくてはなりません。


ところが、支払ったはずの代金が、買った食糧の袋の中に入っていました。シメオンを解放するために、エジプトに行けばどうなるでしょう。あらぬ疑いは深まり、ベニヤミンを連れて行っても、ベニヤミンまでも投獄されてしまうかも知れません。事の顛末を聞いたヤコブは恐れます。かつて獣に殺されたヨセフ、今回はシメオン、次はベニヤミンと三人の息子を失うことになると嘆いて。決断を先送りにしたのです。

やがて買った食糧も底をつきます。ヤコブは先送りした決断を迫られ、対策を講じて息子たちを送り出します。対策は、第一に息子を失わないために、カナンの地の産物をエジプトの支配者への贈り物とすること、第二に食糧を買うために、前回の未払金と今回の買付金の二倍の金額も準備したことでした。姑息な人間の手段でしかありませんが、教会の様々な対策も姑息な物でしかありません。そして、疑いを晴らすために、ベニヤミンを同行させました。彼は祈りの言葉を息子たちに述べます。神の憐れみを求めて、失われるかも知れない二人の息子の帰還を願い祈りました。その最後の言葉です。

「私も、失うときには、失うのだ。」創世記43章14節

諦めの境地のような言葉です。失いたくないという気持ちを諦めたのです。たとえ失っても自分の願った通りではなく、神様のみこころだけがなされるように祈ったのです。結果、ヤコブの決断と対策は祝されました。二人の息子は失われず、死んだと思っていたヨセフまで失われていなかったのです。神のなされることは、私たちの想像を遥かに超えて、人間の対策以上の祝福があるのです。御名を崇めます。